銭箱の古噺

▌賽銭とは?

 賽銭とは、個人的な祈願成就に対する御礼として神仏に奉納する銭貨、または、社寺へ参詣し神仏への敬いと感謝の表現として奉納する銭貨のことです。そして、賽銭を供える行為は人々が個人的に匿名で行うもので、基本的に賽銭箱に納められるものが賽銭です。

▌賽銭は散銭や参銭とも呼ばれた

 日本では、銭貨が供えられる以前は米や布などの賽物が供えられていましたが、その多くはお米で、これを散米と云いました。散米は米を撒くことから散の文字があてられたようです。米以外でも散供といって、餅や豆、酒なども使用されます。散米も散供の一種といえますが、日本では長い間お米や布が通貨の代わりをしていました。
 賽銭以外に、散銭や参銭の文字も使われています。銭貨を供えることで同意語ですが、時代や地域により呼び方が変化したようでです。
 「賽銭」の「賽」を字源辞典でみると、「賽」=むくいしてまつる・おれいまいり。「塞」は道路や境界の要所に土神を祀り、守護神とするもので「さへの神」にあたり、その神に報賽する意で貝を加える。(『字統』白川静著・平凡社) とあります。庶民の遠隔地への参詣が盛んになるのが室町時代後期頃からです。人々は、旅先での神仏への祈願と御礼、そして、旅の無事を道路の神様に願うことも合わせて「賽」の文字をあてたのでしょう。江戸時代には賽銭の呼び方が一般化しますが、地方によっては散銭も併用されています。現在でも散銭の墨書き文字を江戸時代に奉納された箱に見ることができます。

▌日本の貨幣経済は?

 日本では奈良時代から平安時代前期までに皇朝12銭が造られましたが、これ以後、江戸時代の寛永通宝まで官製の銭は造られずに米や布が通貨の代わりをしていました。しかし、12世紀以後、中国、朝鮮、琉球との交易が盛んになり、宋銭や明銭などが大量に輸入されました。これが国内で流通するようになり、日本の貨幣経済は渡来銭により支えられ発展しました。畿内を中心に散米もしだいに散銭へ代わっていったようです。

早くから貨幣経済が発達し

 中国での貨幣使用は、春秋時代(前8〜5世紀)に始まり、戦国時代(前5〜3世紀)には貨幣経済が定着しました。9世紀には賽銭として銭貨が奉納されています。慈覚大師円仁(794-864)の唐における838年〜約10年間の大旅行記『入唐求法巡礼行記』(塩入良道、東洋文庫1・平凡社) には、天台山に入るため開元寺に滞在中の承和6年(839)正月15日夜の燃燈会の様子が書かれています。「東西街中の人宅は燃燈す。(中略) 街裏の男女は深夜を憚らず寺に入って事を看る。供燈の前には分にしたがって銭を捨す。巡看して已に訖れば、更に余寺に到り、看礼して銭を捨す。諸寺の堂裏並びに諸院も皆競うて燃燈す。来たり赴くものあれば必ず銭を捨して去く。(後略)」とあります。この「銭を捨す」は、日本では「喜拾」のことです。また、長安に滞在していた承和8年(841) 2月8日より15日まで行われた仏牙(歯)会の記述の中で「(前略)是の如く各々発願、布施して仏牙会を荘厳にし、仏牙楼に向かって銭を散ずること雨の如し。(後略)」と散銭の様子が書かれています。
 神戸にある関帝廟の賽銭箱には、香油銭箱と書かれています。賽銭のことを中国語では香資と云いますが、台湾では日本と同じように賽銭も使われています。

鎌倉新仏教の興隆

 鎌倉時代に入るころから、それまでの鎮護国家の仏教から一般大衆へ向けた新しい仏教が興隆しました。鎌倉新仏教は、人々の宗教的欲求を満たし個人も救済されることで、民衆に広く受入れられました。この新しい仏教と貨幣経済の発展は、人々の意識と生活を大きく変化させてました。また、農業や各種手工業も盛んになり、各地で市が開かれるようになりました。人間と物資の移動が活発になることで街道や宿場の整備も進み、次第に遠隔地への旅も可能になり、江戸時代に入ると、庶民の旅は参詣を中心にして遠近さまざまに多様化し、都市部では賽物は貨幣化してゆきました。

▌賽銭箱はいつ頃から置かれたのか

 賽銭箱に関する文書でよく知られるのが『快元僧都記』です。これは鶴岡八幡宮の別当を勤めた快元僧都が残した室町時代末期の日記で、天文元年〜11年(1532〜1542)の鶴岡八幡宮の社殿再建の様子が詳細に記録されていて、大変興味深い文献です。この中で、天文9年(1540)4月16日に「神主大伴時信、神前に初めて散銭櫃を置く」とあり、これが全国で初めて賽銭箱が置かれたことだと誤解している人がいますが、とんでもない間違いです。日記の始めの部分、天文元年6月1日には、神輿三基を拝殿に安置して多くの参詣者を集めて賽銭が多額であったことが記述されています。このことは、以前から鶴岡八幡宮の拝殿では賽銭箱を置かずに賽銭が奉じられていたが、何らかの理由があって賽銭箱が必要になり、この日初めて置いたと思われます。この頃、円覚寺でも多額の賽銭を集めていた記述があり、既に鎌倉の寺院では賽銭箱を使用していたと考えられます。賽銭箱を置いた理由は賽銭泥棒の存在でしょう。賽銭は床に撒き散られた状態であったことから、これを盗む者が絶えなかったので、賽銭泥棒から賽銭を守るため、格子を取り付けた櫃を置くことにしたのでしょう。賽銭箱の設置は、鎌倉時代の新仏教の興隆とともに、近畿地方を中心に信仰を集めた寺院に置かれるようになり、室町時代から江戸時代にかけて次第に全国に拡まったと考えられます。

▌絵画資料に登場する賽銭箱

 賽銭箱の古い姿は鎌倉時代から江戸時代までの絵画史料の中に数多く登場します。中でも年代の古いのが『一遍上人絵伝』(歓喜光寺蔵)です。因幡薬師と呼ばれ庶民に親しまれていた京都の因幡堂(現在の平等寺)を一遍聖人が訪れる場面です。お堂の内陣には、格子を取り付けた4脚の大きな唐櫃型の賽銭箱が置かれています。一遍聖人が実際に京都の因幡薬師堂(現在の平等寺)を訪れたのは弘安2年(1279)春といわれ、その10年後(1289)に亡くなりますが、さらに10年後の正安元年(1299)この絵巻物が完成しました。
一遍上人絵伝(歓喜光寺蔵).jpg因幡薬師堂の唐櫃賽銭箱)
 これより10年後、延慶2年(1309)に制作された『春日権現験記絵』にも賽銭箱が描かれています。嵯峨の釈迦堂として人々の信仰を集めた清涼寺の場面で、釈迦堂に置かれた賽銭箱は半分ほどが屋根にかくれていますが、その外観は『一遍聖絵』のものと大変よく似た唐櫃型の意匠です。
 鎌倉時代から南北朝、室町時代へかけて、親鸞聖人の絵巻や絵図が数多く制作されていますが、この中に「六角堂夢想」の場面に賽銭箱が描かれているのがあります。六角堂の正面に置かれた賽銭箱の意匠や大きさなどは様々ですが、鎌倉時代に描かれた絵では賽銭箱が一台なのが、南北朝時代以降の絵には、3台も描かれているのがあり、この時代の六角堂には実際に3台の賽銭箱が置かれていたのではないかと、大変興味をひかれます。これらの絵巻に登場する京都の因幡堂、清涼寺釈迦堂、六角堂はそれぞれ庶民の信仰を集め、多くの人々が参詣にくる寺院であったため、畿内でも早くから賽銭箱が置かれたと考えられます。
 室町時代後期、天文元年(1532)に将軍足利義晴が寄進した絵巻物『桑実寺縁起』があります。薬師如来を本尊とする桑実寺の本堂には唐櫃型の賽銭箱が置かれ、人々が参詣に訪れる様子が描かれています。この時代になると、多くの有名寺院や神社で賽銭箱が設置されるようになったと思われます。
 その他、各地の社寺参詣曼荼羅図や洛中洛外図、近世風俗画などに賽銭箱が描かれています。社寺参詣曼荼羅図などには、柄杓を差し出して賽銭を求める姿が数多く登場する。
 京都の『珍皇寺参詣曼荼羅図』には、本堂の上から覆面をした6人の男衆が、大きな長い柄杓を差し出して喜拾を受けている様子が画面の中心に描かれています。また、「洛中洛外図」の中でも、勧進僧が柄杓を持って通行人から喜拾を求める姿があり、柄杓は賽銭箱ではないが、賽銭を集めるための道具として使用されていたことがわかります。
羅漢堂2.jpg(羅漢堂)羅漢堂1.jpg
 江戸時代に入ると、名所巡りの案内書として『江戸名所図会』『都名所図会』など各地の名所図会が出版されたが、これらの中にも賽銭箱を見ることが出来ます。江戸の「五百羅漢寺」では、人々が大きな堂内を巡路に沿ってお参りする姿と多数の賽銭箱が描かれています。

▌賽銭箱の代わりに仏餉鉢が使用されていた

弥彦神社鉢.jpg新宮熊野神社.jpg恵日寺.jpg
 銭貨の使用で賽銭箱(散銭櫃)が登場しますが、それまでの散米はどのように供えられたのでしょうか。おひねり(洗米や銭貨を紙で包みひねったもの)で供えられたという説もありますが、鎌倉時代の紙は大変貴重であったので、散銭と同じように櫃が用いられたのか、あるいは、何か容器が使用されていたようです。
 『信貴山縁起絵巻』にはUFOのように空中を飛んで米俵を運んでくる鉢が登場します。これは、仏餉鉢、仏飯鉢、仏供鉢などと呼ばれ、米飯を盛って仏前に供える鉢です。平安時代までの鉢が直径20㎝程度だったのが、鎌倉時代から室町時代にかけて次第に大きなものが造られています。
 彌彦神社(新潟)の鉄鉢は、直径59㎝、高さ35.4㎝の大鉢で、鎌倉時代末期の嘉暦元年(1326)に奉納されています。また、新宮熊野神社(福島)にある大きな銅鉢は、直径62.5㎝、高さ28㎝で、南北朝時代の暦応四年(1341)に奉納されたものです。他にも、都々古別神社(福島県八槻)の四口揃いの銅鉢、平泉寺大日堂(山形)の鉄鉢、そして、磐梯山恵日寺(福島)の鉄鉢等々、洗米鉢や賽銭鉢と呼ばれる鉢が東北地方を中心に多数残されています。洗米を一杯に入れて奉納されたと伝えられる鉢もあります。これらの鉢は、賽銭箱の古いかたちを伝える貴重な文化財です。

▌賽銭箱の原型は唐櫃である

 賽銭箱は、古くは散銭櫃と呼ばれていました。その原形は櫃です。櫃は箱の総称ですが、上面を開口として蓋があり、唐櫃、倭櫃、長櫃、鎧櫃、具足櫃、折櫃、米櫃、炭櫃など、収納物や使用目的でさまざまな名称が付けられています。 
 最初は櫃の蓋を外して賽銭箱に用いたが、賽銭が盗まれるため、手が入らないように開口部分に格子を取付け、さらに中が見えにくく、ひっくり返しても賽銭が出ないように斜めの板を取付けたのでしょう。また、大きくしたり、重くしたり、建築と一体化したりと、いつの時代も賽銭泥棒との戦いだったようです。

慈覚大師 円仁

 794年(延暦13年)〜 864年(貞観6年)下野国の生まれ。天台宗(比叡山延暦寺)の開祖 最澄に師事し、師から全てにおいて最も信頼された弟子。第3代天台座主。入唐八家(最澄・空海・常暁・円行・円仁・恵運・円珍・宗叡)の一人。大旅行記「入唐求法巡礼行記」を記す。

入唐求法巡礼行記

 最後の遣唐使として入唐した慈覚大師円仁が記録した大旅行記。
 838年(承和5年)6月〜847年(承和14年)12月までの9年6ヶ月間の貴重な記録である。この中で庶民が賽銭を納める様子が記述されている。

快元僧都記

 鶴岡八幡宮寺の別当であった快元が記述した、1532年(天文元)〜1542年(天文11)10年間の日記。北条氏綱の鶴岡八幡宮再興に関わる記録が中心で、工事内容や組織、北条氏についてなど、詳細に記述された興味深いものである。

一遍上人絵伝

 鎌倉時代中期の僧侶で時宗の開祖 一遍上人の生涯を描いた絵巻物(1299年作・国宝)。
 遊行上人とも呼ばれた一遍が時衆を率いて遊行を続け各地を訪れ、民衆を賦算と踊り念仏で極楽浄土へと導くすがたが描かれている。歴史・風俗資料として貴重なものである。

春日権現験記絵

 藤原氏の氏神春日社の由来と霊験譚を描いた絵巻。1309年作。

桑実寺縁起

 桑実寺は、定恵和尚によって白鳳6年(678)に開創されました。この寺の御本尊薬師如来が琵琶湖の湖水より出現し、人々の病をたちまち治したとされる縁起を描いたもの。1532年(天文元年)作。

珍皇寺参詣曼荼羅図

 六道珍皇寺参詣曼荼羅図には、往時の寺の境内と盂蘭盆に六道参りする人々が大きな柄杓に賽銭を入れている様子が描かれている。桃山時代の作。室町から江戸時代にかけて多くのの参詣曼荼羅図が描かれている。