日本の賽銭箱

山神社・拝殿

象山神社は、佐久間象山(1811-1864)を祭神に祀り、昭和13(1938)年11月3日に創建された神社。象山は信州松代藩士の佐久間一学の長男として生まれる。父は公文書を作成する側右筆の組頭を勤め、儒学や算術に秀で剣術も藩随一と言われた人物で、象山は父の才能を引き継ぎ、幼い頃から武術や朱子学、儒学、算術を学び、神童ぶりを発揮した。天保4(1833)年に江戸へ赴き、佐藤一斎の塾に入門、儒学や詩文、朱子学等を勉学。天保9(1838)年、再び江戸に出て私塾を開き多くの門弟を集めた。1842(天保13)年、主君真田幸貫が老中海防掛に就任、象山は顧問に抜擢され、西欧の事情を研究を命ぜられ、「海防八策」を幸貫に上書した。これを契機に洋学(蘭学)修業の必要を痛感した象山は、1844(弘化1)年、34歳でオランダ語を学び始め、2年ほどで修得、自然科学書、医学書、兵学書などを読破、西洋の科学知識を吸収し、その応用にも心がけた。1851年(嘉永4)江戸木挽町の松代藩邸に私塾を開き、砲術•兵学•科学•数学•蘭学などを教えた。この頃、西洋砲術家としての象山の名声は天下に知れわたり、勝海舟、吉田松陰、坂本龍馬、橋本左内ら多くの志士が入門した。1853(嘉永6)年、ペリー来航により藩軍議役に任ぜられた象山は、老中阿部正弘に「急務十条」を提出。弟子の吉田松陰に外国行きを勧め、1854(安政1)年に決行したが、松陰の海外密航は失敗。これに連座した象山は、以後9年間松代に蟄居。この間、高杉晋作、中岡慎太郎ら明治維新で活躍した多くの人物が松代を訪れた。象山は洋書を読んで西洋研究に没頭、洋学と儒学の兼修を積極的に主張し、固定的な攘夷論ではなく、国内政治体制として公武合体を唱えるようになった。1862(文久2)年に蟄居を解かれ、1864(元治1)年、幕府の命で上京した象山は、公武合体と開国を進めるべく将軍家成、一橋慶喜、山階宮、中川宮に意見を具申したが、その言動で尊王攘夷派から狙われ、同年7月11日、京都三条木屋町で斬殺された。享年54歳。

匠技


賽銭箱には、木工の箱組や彫刻、彫金や鋳金などの金工、石工や漆芸など、職人の巧みな技を発見することができます。

賽銭箱古噺


賽銭箱に関するおはなしです。

絵葉書に見る賽銭箱


明治後期から昭和前期の絵葉書の中に、近代の賽銭箱のすがたを見ることができます。

賽銭箱デザイン学会


賽銭箱デザイン学会は、